錦 秋
02/11/24京都新聞
今年の紅葉はあわただしい。
夏の名残のような日が続くと思えば、いきなり初冬の気温になり、木々はあっという間に紅葉した。
と思いきや、もはや散り果てた木が目につく。
なんとも忙しい。
そこで、先日、落葉に追いかけられるように、箕面の森を見に行ってきた。さすがに盛りは過ぎていたが、それでも目を奪われる美しさだった。
植林された杉檜の人工林が日本の山を埋めつくす中、もはや死語となりつつある錦秋。
それが、目前に広がっていた。
ご存じの方も多いだろうが、箕面の森国定公園は、どの山もすっぽり山ごと紅葉する。
一口に紅葉といっても、雑木の山は色彩豊かだ。
花のような薄紅あり、橙あり、金あり、真紅もある。
そういう山々が、また、金襴緞子の帯地を広げたように連なるので、なんとも絢爛豪華である。
ふと、ほんの数十年前まで、日本の山々の多くはこのようであったと思い付くと、失ったものの大きさに茫洋とした。
杉檜が不要というのではないが、国家が林業に従事する人々を力強く援助することで、日本古来の雑木の山をもう少し守れなかったのだろうか。
実際、植林して育てた杉檜さえ、市場に出せば赤字らしい。
植林する費用も捻出できないという。
だとすれば、木や森を、工業製品のように市場にのせ売りさばくという考えを改めるしかない。
山谷や川や、昔ながらの水田や、真砂の浜辺などは、日本人にとって心身の癒しであり、環境的な価値が優れている。
無駄な河川工事や建設に血税を費やすより、この国の山や川や海の豊かさを守り育ててもらいたい。
芸術や文学は腹の足しにならないが、時として、一国さえ救う力を発揮する。
もしかしたら、地球さえも救えるのかも知れない。
それと同じに、杉檜のように建材として役立たなくても、雑木の美しい山は、もしかしたら、すさんだ現代人を魂を救うかも知れない。
その箕面の森でさえ、山沿いを流れる川は汚れている。
山深くからはビールを醸造する名水も出るそうだが、大地を流れる川は他所からも合流する。
国定公園の山谷だけ守っても、川の水は美しくはならない。
美しい山川を失うのには、金も時間もさほどかからなかったが、取り戻すには気の遠くなる時間と財源が必要だろう。
さすれば、明日ではなく、今日から始めてもらいたい。
(童話作家)
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