花の記憶 





薄紅色の桜の下で、こんもりとしなだれたゆきやなぎが雪のように咲きこぼれる季節。
どういうわけか、私はこの季節にあまりいやな思い出がありません。
幸運だったのか、それとも、咲き競う花々の美しさに呆然としているうちに、いやな思い出にも霞みがかかって、遠い記憶になってしまったのか…たぶん、後者のような気がしています。
いえ、たったひとつ。花の記憶と重なったせつない思い出がありました。
小学六年生でした。 何のお礼だったか、養父がチュウリップの花束を貰ってきました。
花といえば、仏壇にあげる花しか思い浮かばない養父は、「こんなもん貰っても、飾るとこがない。学校にでも持っていけ」といって、気前よくその花束を私にくれたのでした。
赤、黄、白、レースのようなふちどりのあるピンクのチュウリップもありました。
その色とりどりの美しいこと。
チュウリップにかぎらず、私は花束というものを、生まれて初めて手にしたのです。
翌日、私はランドセルを背負い、花束を大切に抱え学校へ行きました。
このきれいな花を先生の机に飾ったら、先生はきっと「おっ、きれいやな。だれが持ってきたんや?」といってくれるだろうと思いました。
飾ったのが私だと知ったら、先生は少しは私のことを好きになってくれるだろうかとも思いました。
わくわくどきどきして、階段を駆けのぼる足がもつれました。片手に花束、片手に手提げを持っていた私は、うまく体を支えることができず、おもいきりつんのめってしまいました。
休の下敷きになった花束はひとたまりもありません。
階段の角に胸や腕をぶつけましたが、起きあがって散り敷かれたような無残なチュウリップを目にしたときの胸の痛みにはかないません。
あとからあとから涙があふれました。
泣きながら、茎がぽっきりと折れて首だけになったチュウリップを拾い集めました。通りかかったクラスメイトの女の子がいっしょに拾ってくれましたが絶望は胸から去りません。
「チュウリップを殺してしまった」
心の中で神様を呼びました。
「チュウリップがもとにもどるなら、私の命はとられてもかまいません。どうぞ、チュウリップを助けてあげて」
本気でそう願ったのです。
切り花だから、どうせすぐ枯れる。たかだか植物だ。そういう大人の考えを知らないわけではないのに、そう願わずにはいられなかったのです。
考えてみれば、当時、私はクラスメイトの男子生徒2人から、手酷いいじめを受けていました。
その上、先生にも決して好かれてはいませんでした。
たった十一歳の私の人生は、何もいいことがなかったのです。
いいことは、花束を手にしたことでした。その花束が無残な姿になった今、たったひとつのいいことを取り戻したかったのかも知れません。
結局、首だけになったチュウリップは、いっしょに拾ってくれた女の子の手で、浅いお皿に浮かべられ、先生の机に飾られました。
まだ涙が乾かないうちに、先生が教室にやってきました。
「なんや、これは?」
先生がいいました。
なりゆきを見ていたクラスメイトが説明する間、私はずっと下を向いていました。また、涙があふれてきたからです。
「そうか。けど、こんなもん、ここに置いたら授業のじゃまや」
そういった先生の言葉を、私は今でもせつなく思い出します。
子どもと大人の深い溝。
小さなおもいやりがあれば一足で跳び越えられる溝なのに、その先生とは
ついに溝を越えることができませんでした。
追い詰められ、子どもたちが死んでゆく今、私はあのときの自分を思い出します。
チュウリップの花より軽かった十一歳のいのちの重さ。
いじめられるために登校する子どもは大人が思うよりずっと孤独です。
けれど、私は今でも、いっしょに花を拾いお皿の水に浮かべてくれた、無口でおとなしい友だちの横顔を忘れません。
春。
まばゆいこの季節に、私はいやな思い出はありません。



 






抜けるような青空から、ぱらばらと雨が落ちてきてすぐに止んでしまうお天気を、京都では昔から『きつねの嫁入り』と呼びます。
「こんな雨の降る日は、きつねが嫁入りしとるんや」
父はよくそう言って、空を仰ぎました。
「どっかって、どこ?」
まだ幼かったかった私には、どこかで、きつねやたぬきが人に化けたり、嫁入りしたりするのは、しごく当然に思われました。
「山の中や。ずっとずっと山奥の・・・」
私の想像できる山奥は一つしかありません。高知県のおばあちゃんのいる田舎。
おばあちゃんの家は高知市内からずっとはずれた山の中腹にありました。いとこの栄一の家はそのすぐ下です。
夏休みに母と私が里帰りすると、栄一は早朝からおばあちゃんの家までやって釆ました。私と栄一は、おばあちゃんの家でいっしょにごはんを食べ、いっしょに遊びました。
段段畑、果樹の林、土葬の墓場、ジャングルのような深い山…遊び場はドキドキするくらいいっぱいありました。
ふもとの仁淀川まで泳ぎに行くと、つるつるの丸い石にまじって、宝石のような小さなガラス石が拾えました。
ガラスのかけらが川に流されみがかれて丸くなったものです。
泳いだりガラス石をさがしたりしていると時間を忘れてしまいます。
ふと気がつくと、うっすら薄い月が空にかかり、河原に黄色い花が咲いていました。
月見草です。
昼間はしおれたように見えた草が、夕空に向かって凛と咲く姿は、心がシンとする美しさでした。
河原のあちこちに、小さな黄色い灯が点ったようでした。
夜、おばあちゃんの家でも、私と栄一はいっしょにテレビを見ました。
「栄一。もう、そろそろ帰りや」
おばあちゃんがそういうと、もう寝る時間です。
私はパジャマに着替えさせられ、栄一は暗い山道を帰ってゆきます。
その時間がどんなに遅くても、翌朝、私が目を覚ますと、おばあちゃんと話す栄一の声が縁側から聞こえてきました。
寝床の中で聞く栄一の声と降りそそぐ蝉しぐれは、私の胸をいっぱいにしました。
今日もいっしょに駆け回るのだと思うと、それだけでめくるめくような喜びでした。
初恋だったかも知れません。
こっそりおばあちゃんに「いとこ同志は、結婚できる?」と尋ねたことがあります。
おばあちゃんは黙って笑っていました。
それでも、やがて京都へ帰る日がやってきます。
その日には、半身が不自由なおばあちゃんは家の前にじっと立って、ハイヤー(予約制のタクシー) に乗る母と私を見送りました。
ハイヤーが動き出したとき、栄一が追ってきました。急な山道を転がるように駆けながら手を振る栄一に、私も車窓から手を振りました。
栄一の姿が小さくなり見えなくなっても、私はずっと景色を見るふりをしていました。
溢れだす涙を母には見られたくなかったのです。

「こんなに早い、金要らぬ嫁入りならば、何度でもええわえ」
そういったのは、私の父方の祖父だったといいます。
私が京都へ貰われたときの話です。
たった二歳のお嫁入りでした。
京都の両親が秘密にしていたそのことに、私は早くから気づいていました。
親だけが秘密にしても、近所の子どもたちに何度となく「貰いっ子」とはやされていたのです。
「本当のお母さんとお父さんはどんな人で、どこにいるんやろ…」
その答えを知るのはもっとずっと後のことです。
 
暗い山の中におばあちゃんの家があります。
その前におばあちゃんが立っていて、栄一が急な坂道を駆けながら、私を呼んでいます。
私はまだ小さな小さな女の子で、時代劇に出てくるような駕籠に乗せられて山を下ります。
駕籠をかついでいるのはどういうわけか、白ぎつねたちです。
前後に行列を組んだきつねたちがうやうやしくささげているのは、月見草の黄色い小さな明かりでした・・・・

『きつねの嫁入り』は、私の中でそんな風景にすりかえられました。
大好きないとこの栄一が、実の兄だと知ったのは中学生のときです。


 







「いつも学校から逃げ出したいと思っていた。だが、逃げ出したかったのは、なにも生徒だけじゃないんだ。教師も同じことを思っていたんだ」
これは、映画『陽のあたる教室』に登場する高校教師のセリフです。
逃げ出したいと思う。 自分を取り巻くすべての義務、責任、良識。
そういったものをかなぐり捨てて失踪したい誘惑にかられるのは、必ずしも弱い人間や未熟な子どもだけではないようです。
振り返って、私自身、名うての逃亡犯だった気がします。

子どもの頃の私は、曲がりくねった細道や分かれ道を見れば、どこへ行き着くのか確かめずにはいられない子どもでした。
当時、住んでいたのは、西に鴨川、東に東福寺や泉涌寺のお山を有する東山の一角です。
小学五年生のある日。
ふと思い立って、遠くの友だちの家に行ってみることにしました。
その子の家に行ったのはたった一度だけ。
頭にはぼんやりとした地図しかありません。
それでもさがせば見つかると思い、出かけました。
ところが、行ってみると、よく似た小路はあっても知らない家ばかり。
行っては戻り、また引き返したりしているうちに、どこがどこだかわからなくなりました。
はたと気がつくと、もう住宅街でもなんでもない雑木林の前に立っていました。
お山の登り口か、それともその先に人家があるのか、木々は両側から迫るように茂ってトンネルのようでした。
小枝に引っ掻かれながらトンネルをくぐると、目の前が開けました。
傾き始めた陽射しの中で、赤、白、ピンク、それに濃い紅色のコスモスが黄色い花芯を空に向けて風に揺れていました。
低い柵があるので、誰かのお花畑のようです。
その向こうには、数本の植木と板切れでつくったような小屋がありました。
まるで、童話に出てくるような場所。
ぼんやりしていると、小屋の向こうから女の子が近づいてきました。
私より一つか二つ年下らしい可愛い女の子です。
その子はそばまで来て、コスモスを少し摘みました。
「だれの畑?」声をかけてみました。
「おじいちゃんの」と、その子は答えました。
「いつも、ここで遊んでんの?」
「ん」
「ええ所やね」
そんな大人めいた会話をしたような気がします。
そのうち、夕暮れが迫ってきました。
「じゃ、私、そろそろ帰るね」
知らない道を帰るのですから、あまりゆっくりはしていられなかったのです。
「ん、じやあね」と、その子はいいました。
「あの…また、来てええやろか?」
遠慮がちにいってみると、その子は「ん。またね!」と、嬉しそうに笑いま
した。
「じゃ。また、来るからね!」
手を振って別れました。
けれども、その子にはもう会えませんでした。
その後、何度か会いに行こうとしたことはあります。
しかし、あのときはどこをどう歩いたものか、どんなにさがしても、その場所にはもう二度と行き着くことができなかったのです。
考えてみれば不思議です。
けれど、子どもの頃というのは、そういうものかも知れません。

今は、その頃の感受性に年輪とかいう鎧をつけ、いかにも大人ふうに装って暮らしています。
けれども、ときおり嵐のように生(き)のままの自分が戻ってきます。
穏やかな母の顔、誠実な社会人の顔が無残に剥がれてゆくとき、あの日のお花畑に行きたくなります。
そんなとき、幼い同居人が寄り添って髪をなでてくれます。
「どうしたん? 気に入らんことでもあったん?」
慰めの言葉をどこで覚えたものか。
その子の手を取って外に出て、川辺を歩きます。
キンエノコロの群生地がありました。
夕日に黄金の穂が輝いています。
草を踏む足元からバッタやコオロギが跳び立ち、ススキの繁みには野いばらの赤い実が棘に守られて色づいています。
歩きながら、ふと思います。
もしかしたら大人も子どもも、人はみな小さな逃亡を企て、密かに実行しながら生きているのではないかと。
雪の日に、凍えながら咲く秋桜を見たことがあります。
人の生が逆境によって輝きを増すように、秋桜は風を逃がれながら、冬にさえ咲くのです。

 





 



子どもは遺伝子によって、その姿や体質といったものを形作られて生まれてきますが、さて、その心はどうでしょう。
性質、才能、感受性・・・といった人間の内なるひだに織り込まれた様々な個が個たる証し。
それらは、いつ形成されるのか。
遺伝子の影響は皆無とはいえません。
が、その趨勢を決めるのは、やはり乳幼児期、子ども時代の環境かも知れません。
ただし、それが偏った方向にのみ強調されることには危機感を感じます。
子どもには、どんな時もベストの環境を提供しなければならないとしたら、ほとんどの親はノイローゼになるでしょう。
何がベストかというのも価値観によって大きく違ってくるし、これがベストかも知れないと思っても、その為に親の人生を犠牲にして良いというものでもありません。
親であれ子どもであれ「たった一度の大切な人生」という事実に変わりはないのです。
そのせめぎ合いの中に、子育てはあるといっていいでしょう。

「あんなお父ちゃん、もういややから、もっとええお父ちゃんの所へ行こか?」
冬のある日、母がいいました。
その頃の私は父が大好きで、父と別れて母と二人になるのも、ましてもっとええお父ちゃんの所へ行くなんて、考えられないことでした。
けれど、当時の母が父との暮らしに疲れ果てているのも、はっきり感じていました。どう答えればいいのか。
父と別れるのはいやです。
けれど、母も傷つけたくなかったのです。
まだ小学生だった私の頭はカッとして、くらくらめまいがしました。けれども、答えなければなりません。
父とは別れず母を傷つけない言葉を、少ない語彙の中からさがし出さねばなりません。
「あの…あの…あんなお父ちゃんでも、うち、慣れてるから…そやから、あのお父ちゃんでええ…」
ようやくそう答えて、母の顔色を見ました。
「そうか…あんなお父ちゃんでも、慣れてるからええのんか。そうか…」
そういった母の寂しそうな笑顔を忘れられません。母は美しい人で、有職婦人でもありました。
あの時、私が違う答えを出していたら、母の人生は変わっていたかも知れないのです。
そう考えると、私は今も胸が痛みます。
この切ないシーンは「なれてるお父ちゃん」という物語(『風のラヴソング』所収) になり賞を受け、日本児童文学者協会創立50周年記念出版
『子ども文学館』にも収録されることとなりました。
そのことを喜んでくれる母に、私は今でも、あの時のことを聞けずにいます。
「あのとき、もし、私が『うん』といったらどうするつもりやったん?」と…。
一方、別れを選択した家族の物語も書きました。
『ファースト・ラヴ』(岩崎書店)という物語の終盤で、主人公の少女星海が、離婚した母親に尋ねます。

「母さん、父さんと結婚したこと後悔してる?」
私はずっとたずねてみたかったことをいった。
母さんは「ううん、してない」と、答えた。
「母さんね、これから、星海や翔太と新しい生活を作ってゆくこと、なんだか楽しみに思えてきたの。だからね、結婚も離婚もそれほど悪くなかったって気がして・・・。あ! でも、こんなこといったら、星海と翔太に悪いね」
いいながら、母さんが明るく笑った。
私は黙って母さんの腕に腕をからめた

この物語では思春期の少女の愛と牲、そして、それとせめぎ合う両親の心の葛藤を描きました。
それはどちらもかけがえのない人生だからです。
春のうららには決して咲かない花が、親の人生にも咲いていることを、多くの子どもたちは理解しょうとしません。
また、子どもの芽生えたばかりの人生にだって、その季節でなければ咲けない花があるのを理解しない親がいるのも残念です。
思春期は匂い立つすみれや桜。では、親と呼ばれる中年期、老年期は、秋の紅葉でしょうか?
それとも、冬枯れの草?
いいえ、風の出初めにちりちりと舞う細かな雪を、風花と呼ぶではありませんか。
それは、痛みを知って尚、前向きに生きようとする人生を彩る天上の華です。
凍える季節にしか結晶しない冬の華の尊さをこそ、若い世代に伝えねばなりません。


              
月刊補導だより掲載 連載エッセイ