凍 霧(いてぎり)  京都新聞02/12/29
        
      越水利江子


 冬ざれの街に白い霧が立つ。
 冷たく深々とした凍霧である。
 ジングルベルの消えた街は、重く霧に沈んでいる。
 年の暮れが身に染みる。
 来し方行く末を思う暇もない歳末。
だが、この時期こそ振り返るべきだ。
 霧中、過去を分析し未来を予見しなければならない。
 なぜなら、この機を逃しては、目先の忙しさにかまけ、諾々と一年を過ごしてしまいかねない。
なんとかこの慌ただしさを切り抜け、泰然と新年を迎えたい。
ほんの数十年前の日本人のように。
 
 考えれば、あの頃のこどもには、豊饒な時間が流れていた。
 一日はたっぷりあったので、正月の凧揚げやゲームはすぐ飽きた。
持ち寄った貸本の回し読みもしたし、寺社や山川で探検ごっこもした。
 ひるがえり、昨今を思うと、白い凍霧のように胸が冷えてくる。
今のこどもたちは狭い小箱の中で生かされている。
身体は学校と自宅と塾に。心はテレビや漫画やゲームに囚われたまま。
  
 いや、こどもだけではない。
若者たちの精神性がどんどん浅薄になった時期と、こどもの世界が狭小になった時期は見事に重なり合う。
こんな環境を作った責任はすべての大人にある。
 例えば、ハリー・ポッターなる本が異様に騒がれ普及しても、外国産の一つの物語だけでは、日本のこどもの心を深く長くは癒せない。
人気テレビゲームもしかり。
ゲームはいわば整備された公園のような物。画一的な公園では多様な遊びは生まれない。
豊かな山川があってこそ、こどもの遊びも熟成する。

 いつか、漫画こそ童話や文学に代わると取り沙汰されたが、それもかいかぶりだった。
漫画、ゲームにも功はある。
だが、漫画、ゲーム世代のこどもと若者が、恐ろしい勢いで心を尖らせ、人間としての弾力を失っているのは確かだ。
 人間には、心と身体を解放する場が必要なのだ。
 それは想像をめぐらせる多くの優れた本や、走り回れる山や川である。
そばに山川があれば、外で遊ばないこどもがいてもかまわない。
 当然、本を読まないこどもがあってもいい。
 新聞や雑誌に、いつでも面白いい児童書の情報があって、近くの書店や図書館にそれらの本があるのなら。
 外で遊ぶ子と、家で本を読む子は、必ず互いに影響し合う。
多様なこどもがいてこそ、豊かなこども社会となる。
 
来年こそ、こどもを囲む凍霧が晴れるよう、私はもっともっと働こう。
 歳末の童話作家の誓いである。
(童話作家)