一枝(うめひとえだ)       
         02/2/17 京都新聞
         越水利江子



 露地に蝋梅(ろうばい)が薫っている。
 どこにあるかと見回すと、思わぬ遠くに花枝が見えた。香気の強い冬の花である。
 この時期、文学界で先駆けて咲く花は各文学賞の受賞作家。
今年は、これまで賞に縁のなかった親しい友人が大賞を受けた。
清貧の作家である。二重の意味で嬉しい。
それでつい、自らが作家として出発した頃を思い出した。
デビュー作
『風のラヴソング』(岩崎書店 現在は講談社青い鳥文庫)が作家協会と文化庁の二賞を受けたのはもう八年前。
今から振り返れば、華々しいスタート。
ところが、その後が大変だった。
素人からひょいとプロになった為に二作目が書けない。
同人誌で文学修行をしてきた人なら書きだめがあるが、私は同人にも所属していなかった。
結果、二、三作目までは実に苦しんだ。
だが、これは私だけではない。
一、二作が出たきりで消える作家の数は全体の七、八割を占める。それはなぜか。
その答えは、私が生き残れた理由を考えればおのずとわかる。
 当時の私は幼児を抱えた母子家庭。
その母たる私は、書くこと以外、とりたてて学歴も能力もなかった。
書けないと引き下がれば、親子三人が確実に路頭に迷う。つまり後ろは崖っぷち。
退く足場がない。
進むしかない。
これが生き残った理由。
言葉をかえれば、生活が豊かで心が満たされていたら乗り越えられたかどうか。
書かずとも満たされ生きていけるなら、わざわざ書く苦しみを背負うこともない。
書きたければ趣味で楽しめばいい。
消える作家の多くは書かずとも幸せに生きていける人が多い。
才能の有無ではなく、書く動機を持たない人なのだ。そういう人は趣味でいい。
見下した発言ではない。
優劣でも善し悪しでもない。
これは生き方と価値観の問題。
 創作には二つの力がある。
書く人を癒す力と読む人を癒す力。
プロにとっては、ことに後者が欠けてはならない。だが、趣味で書くなら前者だけでもいい。
こどもの粘土遊びを生産性がないから無駄という人はいまい。
 こどもであれ大人であれ、粘土遊びは人生に不可欠なのだ。
仕事一辺倒で生きてきた人が、定年後、憑かれたように絵や文や陶芸を始めるのも同じ。
それを押し込めてはいけない。
その人は前半生に足りなかった部分を埋めているのだ。
 寒さの厳しい年ほど、蝋梅はつややかに香り咲く。
人の生きる姿も、どこか似てはいないだろうか。

      (童話作家・越水利江子)