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あの日のラヴソング 越水 利江子 私は高知の山中で生まれた。 私には一つ上の兄と年子の弟がいたが、この弟が生まれる前に、私は母の姉夫婦(私には伯母夫婦)の元へ養女に出される。 伯母夫婦は男子がほしかったらしいが、長男をくれとはいえず、一度は、実母のお腹の子(弟)に期待したらしい。 だが、両親が養子に出したのは長女の私だった。 「腹の子はじゃまにならんき」と、実母はいった。 当時、実父は工員で、実母も働いていたが、生活は保育費も払えぬほど困窮していた。 といって、長男は跡取りである。 一方、女の子は嫁に出さねばならぬという理屈で、私は京に貰われた。 京の路地裏で、私はすぐ貰いっ子だと知った。 近所の子らが「もらいっこ、もらいっこ」と囃し立てたからだ。 私は子ども心に、養父母には感謝していた。 それでも、ときおり、泣きたいほど寂しくなる一瞬があった。 そんな時、よく空を見上げた。 なぜか、空は、いつも真っ青だった。 (あの空の果てに、私の本当のお母さんとお父さんがいる…) そう思うと涙がぽろぽろこぼれた。 誰が実父母なのかを知ったのは、高校生の時。 養女に出された事情も知って、心に小さな恨みが生まれた。 けれどこの時、実父はもう亡くなっていた。 この数年前、中学生の私は父の野辺の送りに参列した。 泣きじゃくる兄弟も母も、いとこや叔母だと信じその時間を過ごした。 (あのおっちゃんは、おとうちゃんやったんや) ぼんやりそう思った時、ふいに幼い頃のワンシーンが蘇ってきた。 それは、私が三、四歳の頃だった。 養母に連れられ里帰りしていた高知の祖母の家。 その縁側で、おっちゃんが呼んでいた。 「りえ。こっち来いや。抱いちゃおき」 けれど、私は見知らぬおっちゃんが怖かった。 「いやや…こわい」 私は、確かそんなことをいった。 とたんに、おっちゃんが怒った顔で 「親にこんなこという子ぁ知らんぜ」といった。 (親って…うちには、京都のお父ちゃんがいるのに。変なこというおっちゃんやな) その時は、そう思った。 だが、あれは父だったのだ。 ようやく実母に電話ができたのは、高校卒業を前にした頃だったと思う。 「よう電話してくれたねえ」 と、母はいった。 「…葬式の時は言えんやったけんど、父さんは、おまんを養女に出す話があったとき『りえは、ぜったいやらん』っていいよった。おまんのことは可愛がっちょったき」 私は、ただ「ん…」とだけいった。 母の話は続いていたが、私にはよく聞こえなかった。 「りえ。こっち来いや…」 と呼んでくれた父の笑顔が浮かんでいた。 武骨なひげ面の精一杯の微笑み。 (おとうちゃん……!) 受話器をにぎりしめ、私は声を殺した。 涙が溢れだしてとまらなかった。 その父や養父を描いた『風のラヴソング』(岩崎書店)が本になったのは七年前。 二賞を受け、私の作家としての道を開いてくれた。 天路の父が導いてくれたと思うこともある。 父は、閉鎖された工場の裏で、ひとり詩を書く旋盤工だった。 (こしみず・りえこ 童話作家) ・ 2001/7/1新聞掲載稿(一部修正) |