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チュプさん          
2003/2/10
               written by 越水利江子


チュプさんの訃報がとどいた。
あまりに突然で、まだ実感さえわかない。
チュプさんは、アイヌ人だ。
和人の血の方が濃かったが、少なくともアイヌ人としての誇りに生きた人だった。
私とチュプさんとの出会いは、高校の漫画同好会だった。
その頃、まだ日本名を名乗っていた彼は留年をしていて、一年生の私にとっては、かなり年上の先輩だった。
出会ったときの第一印象は変わった人だと思った。
痩身で背が高く、日本人離れした顔立ちの人だったが、なにせ、早口で喋り始めると止まらない。
その知識、感受性は、普通の高校生レベルを遙かに超え、私には天才に見えた。
彼の描く漫画は、当時のマンガブームを担った手塚治虫率いる虫プロのマンガ専門誌COMや、白土三平率いるガロなどでも、編集部を二分する討論になったという。
彼の才能を高く評価する人と、難解で自己満足的にすぎる作品だという人の二手に分かれたのだ。
十代にして、彼は漫画界の第一線の漫画家たちを煙に巻いた。
そのまま突き進めば、あるいは、彼は特異な漫画家になっていたかも知れない。
だが、彼の漫画は芸術的であり、主張的に過ぎた。
つまり、二分に別れた意見は、どちらも、彼の作品を看破していたことになる。
けれども、芸術的でありながら、主張的な作品というのは、たいていは、主張が芸術を食いつぶす。
彼の作品は、それをぎりぎりのところで芸術にとどめていた。
それだけで、彼は天才だったかも知れない。
だが、たとえ優れた芸術だとしても、彼の漫画はほとんど売れなかっただろう。
庶民が理解するには、彼の漫画は繊細故に攻撃的で、しかも難解だった。
その漫画そのままに、彼の高校時代は他人にも自分にも繊細で攻撃的だった。
自身が生くべきか死ぬべきかとも深く悩んでもいた。
その顛末は、彼自身が笑顔で事細かに私に話してくれた。
(彼は暗く重い話を笑って話す人だった)
自分の死などずっと遠くにしか感じていなかった女子高生の私は、暗さと危うさを漂わせる彼を苦手だと思った。
けれども、彼の方は何が気に入ったのか、能天気な私に、いろんなことを話したり教えたりしてくれた。
そんな中、彼は高校を中退した。
天才のように頭がいいくせに、学校の勉強には何も興味がなかったらしい。
中退後の彼はやがて漫画を捨て、学者のように、アイヌ民族の歴史や文化につい猛勉強を始めた。
私が学校を出て、就職して、結婚して、子供が生まれても、チュプさんは変わらなかった。
青年の危うさを漂わせたまま、独身で、アイヌ文化の研究に没頭していた。
やがて、彼は日本で初めてというアイヌ語絵本を自費で出版し始めた。
そのシリーズの2冊を、私は描いている。
まだ主婦だったときのぎこちない絵だが、各大手新聞社が大きな記事として扱った。
それは、彼のアイヌ語の手柄であり、私はいくぶん彼の足を引っ張っただけにすぎないのだが。
その後、私はイラストレーターとして出発し、童話作家となって多忙になった。
いつしか、チュプさんに会うこともなくなった。
チュプさんはそんな私に、いつもアイヌ研究の通信を送ってくれた。
電話をかけてきては、とめどなく語った。
それは、時として、家族を抱えている私には困ったことでもあった。
だが、彼の話の内容は日本人が闇に葬ってきた歴史の真実を問うものだった。
主張的攻撃的な一面も備えていたから、その面での敵もあったようだ。
そして、彼は中卒にして、某大学の非常勤講師として教壇に立つようになった。
彼は、一つの舞台を得た。そう思って、私は喜んでいた。
そこへ、この訃報がとどいた。
死因は知らない。
心因性の心臓疾患があると聞いていたが、普段は元気な人だった。
「いつ心臓が止まるかわからない」といって、よく私をおどかしたから、私はかえって、彼は死なないと思いこんでしまっていた。
一度だけ、こども連れで国際民族博物館へ一緒に行ったことがある。
私も働いていたし多忙だったのだが、チュプさんがどうしても行こうと、一年間誘い続けたので根負けして行ったのだ。
初めて見る私のこどもたちを、チュプさんは眩しそうに見た。
それから、父親のように、ひょいと片手で息子を抱き上げ、娘の手を引いて歩き出した。
痩身の怒り肩に、不安そうにのっかっている息子の表情を今でも覚えている。
だが、帰り道には、こどもたちはすっかり慣れていた。
きゃっきゃとはしゃぐ息子と娘は、チュプさんを「お髭のおっちゃん」と呼んだ。
それから、こどもたちが大きくなるまでずっと、チュプさんからは、こどもが喜ぶ駄菓子やおまけのようなおもちゃが送られてきた。
駄菓子屋が家業のチュプさんは、親が負担に思わない程度の、こどものよろこぶ物をよく知っていたのだ
訃報がとどいたとき、私には、あのときのチュプさんの後ろ姿が浮かんだ。
民族博物館からの帰り道、電車での別れ際、息子を肩から下ろして、だまって手をあげ去っていった後ろ姿。
髪に白い物が交じっていた。

チュプさんの名は、チュプ・チセ・コルという。
月の家の住人。
それが、彼が自ら名乗った名前だ。