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おかあちゃん

               written by 越水利江子



養母、壽恵美(すえみ)は美しい人でした。
この写真では養母の美しさは十分の一も表現できていないような気がします。
壽恵美は十人姉弟の長女に生まれました。
一番下の妹が、私の実母栄子にあたります。
実母栄子は、養母壽恵美より十七歳の年下です。親子ほどといってもいい年齢差です。
その年齢差通りに、養母は実母の母親代わりでした。

第二次世界大戦が負け戦の様相を帯びて来たころのことです。
内地へのアメリカ軍の空襲が激しくなって、庶民の暮らしは著しく困窮していました。
当時、大阪に居た祖母桐衛(きりえ)は空襲の大混乱のなか、腸閉塞を起こします。
すぐさま病院へ運ばれますが、怪我人が続出で診察してもらえず、とうとう腸が破れてしまいました。お腹のなかで腸が破れて排泄物が体内に出てしまい、七転八倒する患者を、当時の病院は手術する事も、入院させて完治させることもしませんでした。
そのまま自宅へ帰したのです。
寝たきりになった桐衛は大阪に住む息子(私の養母壽恵美には弟、実母栄子には兄にあたりますがどの兄かは伏せておきましょう)のもとへ身を寄せます。
当時祖父母には十人のこどもがありましたが、その下から二番目が栄子でした。
栄子はまだ13歳でした。
祖父豊兼(とよかね)はこのままではどうにもならないと考え、寝たきりの桐衛と栄子を置いて、一番下の子を連れ土佐へ帰ります。
居を構え、準備をして、桐衛と栄子を迎えに来るからそれまで頼むと、大阪の息子に頼んで。

桐衛は夫豊兼が残していった生活費のすべてを、世話になる息子夫婦に手渡します。
世話になる以上、それが誠意だと思ったからです。
けれども、桐衛にとって実の息子であり、栄子にとって実の兄夫婦は、豊兼が去るやいなや、桐衛と栄子に辛くあたるようになりました。
米も味噌も配給の時代、いえ、わずかな配給さえとぎれがちの時代です。
兄の家族は桐衛や栄子に隠れて家族だけで白いご飯を食べても、育ち盛りの妹栄子には充分に食べさせませんでした。
重病の桐衛には、それと知っても、どうしてやりようもありません。
まだ暗い朝、使いに行くよう兄からいわれた栄子は、つい暗闇が怖くて「あにやん。お使いは行くけんど、もうちょっとだけ明るうなるまで待ちよって」と頼んでしまいます。
兄の返事は、殴る蹴るでした。
兄嫁も「ほらみい。あにさんのいうことに逆らうからよ」といって、かばってはくれなかったそうです。

兄嫁は寝たきりの姑桐衛を「くさい」「きたない」といって、全く世話をしなかったので、桐衛の世話とおむつ洗いは13歳の栄子の日課でした。
栄子は朝晩、淀川の土手へ桐衛のおむつを洗いに行きました。
急な傾斜になっている土手に立つと、栄養失調だった栄子はふらふらして、川に引っ張られるようだったそうです。
そのことを、栄子は寝たきりの桐衛に話します。
「おかやん。なんでか、土手に立つと体がふらふらして、川に落ちそうになるが。なんでやろ」
その言葉を聞いた桐衛は、ただだまってぽろぽろ涙を流したそうです。

敵機来襲を知らせる空襲警報が鳴っても、寝たきりの桐衛は動けません。
兄の家族は桐衛を家に残してすぐ防空壕へ避難しましたが、栄子は母親を残していくことができません。
「栄子。早よ、防空壕へ入れてもらい。ここにいたら、死ぬで」
桐衛は必死に栄子を避難させようとします。
けれども、栄子は「死ぬんやったら、死んでもええ。ここにいっしょにおる」といい、頑として動きませんでした。
兄の家族と生き残るより、いっそ母と共に死んだ方が、栄子にはきっと良かったのです。
みなが地下へ避難したゴーストタウンの不気味な静けさ。
叫ぶような空襲警報のサイレンだけが鳴り響きます。
やがて、迫ってくるB29のすさまじい爆音を、ふたりぼっちの母子はどんなふうに聞いたのでしょうか。

空襲のときには、そんなふうに死ぬ覚悟ができる栄子も、日常の飢えには耐えられなかったようです。
この時代、両親がそろっていた家庭でさえ、食べ物を充分に与えられたこどもは少なかったのですから、兄の家族から邪魔者あつかいされていた栄子は当然いつも飢えていました。
飢えのあまりの苦しさに、栄子は、土佐の曾祖母(栄子にとっては祖母)利尾(りお)に手紙を書きます。
以前、利尾さんが送ってくれた根っこのような細い間引き芋をまた送ってほしかったからです。
「ちょっとでもいいから送ってください」と栄子は手紙を書きました。
利尾さんからは手紙と芋が送られてきました。
栄子はどんなに嬉しかったことでしょうか。
その折、桐衛の具合を尋ねた手紙が入っていました。
この手紙を、栄子は長く利尾さんの手紙だと思っていましたが、これは代筆した人がいました。
代筆したその人は、後に私の実父となる少年武男だったそうです。

飢えた栄子は、京都にいる長姉壽恵美にも手紙を書きます。
まだ独身で30歳になるやならずだった壽恵美は、栄子の手紙を読んで様子を見に来ます。
栄子は淀川の土手で、桐衛のおむつを洗っていました。
相変わらず栄養失調でふらふらとしていました。
その時、光の中に美しい姉が見えました。
「えいこ。おかやんは京都で入院させるから、おまえもいっしょにおいで」
姉がそういいました。
その時のことを、栄子はこういっています。
「あの時は、ねえやんが観音さんに見えた。この世のもんとは思えんほど、ねえやんは、凛々しゅうて、そらあ綺麗やった」

桐衛と栄子は救われました。
栄子はりんごのような頬の、元気な少女になりました。
京都で手術を受けた桐衛は、それでも長くて五年といわれましたが、その後、70歳半ばまで元気に生きました。
退院した桐衛は、このままずっと、自分たちが世話になっていては、娘の壽恵美が嫁に行けないと思い立ち、栄子を連れ、夫、豊兼の待つ土佐へ帰ります。

こうして、私の実母栄子は生き延びました。
養母壽恵美のおかげです。
壽恵美がいなければ、祖母桐衛も助からなかったでしょう。
そして、私も、私の兄弟も、栄子から生まれることはありませんでした。
元気になった少女栄子が土佐へ帰らなければ、運命の少年武男は栄子に出会うことがなかったからです。

壽恵美は、その後も、ずっと、両親、弟妹の援助をしつづけました。女の細腕一本で。
その分、壽恵美は、美しい姿からは想像できないほど、激しい性分でした。
性格は、まるで男でした。
そうでなければ、何百万人が犠牲になったあの戦時中、重病の桐衛も、栄養失調の栄子も助けられなかったでしょう。
その栄子もまた、まるで運命のごとく、愛し合った夫武男を事故で亡くし、女手一つで、男のように働き私の兄妹を育てます。
それを身近で支えたのが祖母桐衛であり、京都から経済的な援助をしたのが養母壽恵美です。
壽恵美は、女であることをどこかで捨てて、生涯、肉親を援助し続けたひとでした。
結婚しても、私を養女に迎えても、当時の専売工場(現在の日本たばこ産業)で定年まで働きつづけ、死ぬまで、老親と弟妹を援助しつづけました。

まだ京都にいた頃の少女栄子が風邪をひき、つい甘えて「ねえやん。なんや、息をするのもつらい」と弱音を吐いたときには、姉の壽恵美は「なら、息をするな」といったといいます。
壽恵美は姉として、生涯にわたり、妹栄子を物心両面で支えつづけましたが、それとは別に、泣き言を言う人間が嫌いでした。
壽恵美自身が弱音を吐くのを、だれも聞いたことがありません。
その姉を見て育った栄子もまた、やがて、弱音を吐かない強い母となりました。
そういう実母の元に私は生まれ、そういう養母の元に私は育ちました。
私の母二人は、激動動乱の時代を生き抜いた姉妹でした。

養母は三年前に急死しました。
寝込むこともなく、入院したとたん、男のように「泣きな!」と私を叱って、そのまま風のように逝ってしまいました。