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こどもの本           
               written by 越水利江子


 私は土佐で生まれ、京で育った。
土佐も京も、古い言い回しのようだが、今でも使用頻度の高い言葉ではある。
 土佐は、古い時代には辺境の地であった。
では、今はどうかというと、やはり、山間渓流の地であることには変わりがない。
だが、美術や文学の文化の推進では、京都や大阪の施政者は見習ってほしいと思うくらい、革新的に進歩しつつある。
 もっとも、児童文学については、まだまだ認識が薄いらしい。
 一方で、京は千年の都である。
 文化意識は全国一かと思っていた。だが、驚いたことに、京都府政は児童書を府立図書館に置かないという決定をした。
あちこちから意義が申し立てられたが、これまでずっと門前払いである。
 京都府政よ、あなたは何者か。
 こどもの本を公共図書館に置かないということは、こどもを育てないということだ。
育児ができなくなった母親を問題視し、切れるこどもの増加を嘆きながら、府政がこどもの心を育てるべき読書の機会を奪うのは、どういうことなのだろう。
地域の小規模図書館には少々児童書がおいてあるので、そこで借りろとは、なんといういいぐさだろうか。
こどものための本は、どこにでも、こどもが歩いて行ける距離になければならない。
あそこにあるから、ここはなくていいというものではない。
どこの図書館にも、書店にも、学校にも、置くべきだし、千年の都であれ、山間の地であれ、こどもは読みたいと思った時に本を読む権利がある。
そして、それを供給するのは施政の、いや、この国の大人ぜんぶの義務である。
こどもをなめてはいけない。
こどもは、大人より学習能力が高いのだ。
悪いことも、良いことも等しく学習する。
学習したそれらを分析し、選択する力は、どうやって身に付くのか。
画一的な道徳教育だけで、それができるはずもない。
大きな力になるのは、こども自身がこども社会で身をもって学ぶ思いやりや優しさである。
その思いやりや優しさを支える大きな柱は、想像力である。
その想像力を育てる一番は、豊かな自然である。
そして、二番目が優れた本である。
こどもの頃、いやというほど外遊びをした経験がない大人は不幸だ。
それと同じに、こどものうちに大好きな本に出会わなかった大人も不幸だと思う。
こどもは、いやというほど身体を動かして遊ぶ権利があり、遊ぶのに疲れたら、本を読んで、今度は心を自由に解放して遊ぶ権利がある。
好きな本の読書とは、勉強とはまったく違う、魂の遊び場なのだ。

かつて、開拓の時代があった。
そのことを忘れてはいけない。
こどもの本は、昔からずっと身近にあった訳ではない。
先人のたゆみない努力があって、切り開かれ、身近になった。
切り開かれた土地は、耕さなければ荒れ地に戻る。
誰が、耕すのか。
すべての大人が耕す。
書店や、図書館だけに任せておいてはいけない。
作家や、評論家なんかに任せておくのは、もっといけない。
大人みんなで、こどもに食べさせる魂の食べ物の種をまき、
大きく沢山育てなければならない。
こどもはいっぱいいるのだ。
ハリーポッターだけでいいはずがない。
海外児童文学だけを売りまくって喜んでいていいはずはない。
日本の児童文学をこそ、はぐくまねばならない。
なまけものの作家や、評論家や、書店や、図書館を叱咤激励できるのは、本を読む人々だけである。
私も書き手でありながら、本を読む人の一人でもある。
だから、畑を耕している。
風雲童話城は、そのための畑である。
日本のあの作家、この作家の種をまきたいと思っている。
日本のこどもたちのために。

私にとっては、どちらが故郷かと思うほど愛着の深い京都と高知、さて、
どちらが、いち早く、こどもの本の重要さに気づいてくれるだろうか。