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満ち潮         
                   越水利江子 



「なぜ書くのか?」と、よく尋ねられる。
 主婦だった時、初めての童話を書いた。
ただの主婦だから、むろん本になる予定はない。
投稿するあてさえなかった。
ただ憑かれたように書き上げた。
その原稿を、まだ保育園の年長だった娘に読み聞かせた。
彼女はその物語を気に入り、毎夜「読んでくれ」とねだった。
そのうち、読めといわなくなったので、飽きたかと思っていた。
 ある夜、一人で寝入った娘を見ると、枕もとに私の原稿が散らばっていた。
彼女は私の机から原稿を持ち出し、布団に持ちこんで、ひとり読みながら眠ったのだった。
翌日もさらにその翌日も、私の机から物語の原稿が消え、彼女の寝床に散らばっていた。
 何度も読み聞かせたのに、娘は繰り返し繰り返し読んでは眠った。
 その原稿がデビュー作『風のラヴソング』(講談社青い鳥文庫)である。
 一方で、下の息子は、私の童話を読んだことがない。
それには私に責任がある。
息子がお腹にいる時、私は夫と協議離婚した。
夫はいい人だったが、どうしても結婚には向かない人だった。
かくして、私は主婦ではなくなり、貧乏暇なしの作家になった。
 そうなると、娘の時のようには、時間がなくなった。
それで、少ない時間を濃く遊んでやりたいと思った。
金と時間のない親子はいったい何を使って、どう遊べばいいのか。
答えは一つ。
 空想力である。
 今夏の私の新作童話は、この息子との空想遊びから生まれている。
 風邪で熱が出たあやちゃんは「ぜーったい、海へいく」ときかない。
「ほーら。うみだぞう」
 夕方になって、おじいちゃんの呼ぶ声がする。
 熱の下がったあやちゃんが喜んで行ってみると、そこはただのお風呂。
「そこは海じゃないよ。おふろだよ」
と怒るあやちゃんに、おじいちゃんはすましていう。
「それが、海なんやな」
 それが、不思議なお風呂の海の冒険を描いた絵童話『かいぞくぶろ』(新日本出版社)
この物語は、息子が大喜びした空想遊びをそのまま童話にしたもの。
この本を大好きな読者の子どもが、親の隙をついてお風呂に塩一袋をぶちこんだという話を聞いた。
どうやら『かいぞくぶろ』遊びを自分でやりたかったらしい。
そういう空想こそ、子どもの生きる力だが、それは子どもだけとはいえない。
 どれほど現実的な大人も不思議な夢を見るように、人間には空想が必要なのである。
夢は脳が造り出す大空想物語。
人はみな、この夢で精神のバランスを保っている。
 ここで、なぜ書くのかという問いにかえれば、書くとは、空想する作業である。
空想で得た力を私は子どもたちに還元し、子どもたちはまた、それを何十倍にして私に還元してくれる。
 離婚によって、私はこの素晴らしい職業を得た。
 引いては満ちる潮。
それが人生ではないだろうか。
引かぬ潮、失わぬ人間などいない。
失うからこそ新しい何かが訪れる。
生きる目標を見失いさえしなければ、仕事も愛も更に大きく深くなって、再来してくれる。
それは、決して、特別なことでも、ぜいたくなことでもない。
互いの人生を敬い、大切に考える者同志が出会えば、自然にそうなる。
 
 いま寂しいひと。
 大丈夫。
 やがて潮は満ちて来る。


(こしみず・りえこ 童話作家)
2001/7/22 新聞掲載稿