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特集 子どもはいかにして関西人になっていくのか 
 <児童文芸掲載論考>

  関 西 弁 は サ バ イ バ ル

                                 越水利江子


 関西人と関東人の究極の違いは、「あほ」という言葉を理解するか否か。
あるいは「あほな奴」を愛せるか否か、そしてまた、自分自身が「あほな人間」になれるか否か…という事に尽きる気がするのだが、違うだろうか。
 つまり、このテーマに沿っていうなら「子どもはいかにしてあほを愛せるようになるか」ということなのだ。
 ここまで読んで「なんだ。このふざけた論考は」と思ったあなた。
あなたは、まぎれもなく関西人ではない。
 標準語の「阿呆」や「馬鹿」とは全く違う、関西人にとっての「あほ」。
この言葉の情感、哀感、愛おしさ、切なさ、勇ましさ……人生の喜怒哀楽のすべてを内包した、この言葉の奥の深さを理解しない限り、関西人とは呼べないのだ。
 そこで、生まれも育ちも関西というネイティヴな大学生に「関西人とはなにか」と「子どもはいつ関西人として完成するか」の二つの質問をしてみた。
 その答え。
「関西人とは、ぼけとつっこみを、使い分けられる人間」
「子どもが関西人として完成するのは、だいたい高校大学あたり。小学生は駄洒落のみ。中学生は初級のぼけとつっこみ。高校生になると、友人関係において、ぼけとつっこみの完成型を模索し始める。ただし、家族や環境の違いによっての個人差はある」という。
 つまり、家族や環境に完成された関西人がいる場合は、子どもは高校生くらいには関西人になるらしい。
 逆に考えると、家族や環境に才能の芽(?)をつぶす人物ばかりが存在していると、その子どもは若いうちに関西人の完成型にはなりきれないということである。
 その悪い例に、心当たりがある。
 私はもともと高知生まれで、ネイティヴな関西人ではない。
といっても、一歳の誕生を迎えるか迎えないかで、養女として京都へ貰われてきたので、育ちについてはかなり濃い関西人といえる。
 養父は生粋の京都人、養母は大阪育ちだったが、この養父母の人生観の前には、ボケもツッコミも冗談もただの悪ふざけとしか理解されなかった(関西人でも、少なからずこのタイプの人間は存在する)。
 私がふざけたりおどけたりすると、必ず「おちょけな!」(ふざけるな)「いちびりな!」(お調子にのるな)「ほたえな!」(バタバタ騒ぐな)と叱られた。
 いや、それだけではない。
 一度など、夕飯にとても美味しいおかずが出た。それは、ほんとに美味しかったので、幼かった私は、料理を用意した母を心からたたえたいと思った。
それで、一生懸命知恵をしぼってみつけた言葉を満面の笑みでいってみた。
「これ、おいしいから、明日も食べるし。残しといてな」
 ほんとに明日も食べたかった訳ではない。
どれほど美味しいと思っているか伝えようとしただけだ。
 すかさず、養母がいった。
「いやらしいことをいいな!」
 その時の養母の怖い顔と言葉を、今でもはっきり思い出せる。
私の関西人としてのすべりだしは前途多難であった。
 とはいえ、たいていの子は家庭に恵まれずとも、遅かれ早かれ関西人になってゆく。
友人や知人に鍛えられるのである。
 かくいう、私もその一人である。
 最近は、テレビの関西系芸人に鍛えられるという子もあるだろう。
そういう意味では、関西人は、関西でなくとも生まれつつある。
 しかし、全国一律変わりないはずの子どもがどう育って関西人になってゆくのか。
それを論考せよなどとは、なんと無謀なテーマか。
 はっきりいって、こんな難題は東の人間しか考えつかない。
 子どもが、どんな風に鍛えられ関西人になるのか。
ここで、そのステップを一つ一つ絵解きしていたのでは、とんでもない大連載になってしまう。
そこで、一言でいってしまうと、上級の関西人になるにはかなりの年月と経験、それに独特の勘と呼吸が必要だということだ。
 そう、勘と呼吸。これが狂うと、たとえ吉本の人気タレントでも笑いはとれない。
この勘と呼吸を身に付け、自然体でぼけとつっこみの日常会話が丁丁発止とできるようになれば、関西人も上級というわけ。
 では、次に関西人同士の会話の妙を例にあげてみたい。

   例@ 関西人の母と子の会話
   母に叱られた事を作文に書いた子どもと母親の会話。

「ちょっと。こんなん書いたら、お母さん、よっぽどこわいっておもわれるやん」
「書く事がなかってんもん、しゃあないやん」
母  「そやかて、お母さん、こんなオニババやないよ」
「そうかなあ…」
「あ! それより、あんた。テスト勉強は?」
「まだ」
「あほっ。それをサッサとやらんかい!」
「おーい。オニババやないおかあさーん」(探すふり)

    例A 関西人の母と子の会話

母   「あんた。これ、なに。25点ってどういうことなん? あんたのこと信頼してたのに、字は汚ない。プリントはしてない。テストは隠す。いったいどういうつもりやの!?」
子  「え!? そのテスト、いったいどこにあったん」
「あんたが隠してるんやないかとさがしたら、ランドセルの底から出てきたがな」
「おい。どこが信頼しとんねん」

 この二つは、ぼけ(母)の方が、自分がぼけたことに気づいてない例。
子につっこまれて初めて、自分のぼけに気づき苦笑する。
ここで「親に向かって、えらそうに何をいうか」などと怒りだすのは、関西人ではない。
 この場は、子どもの勝ち。笑って引き下がるのが関西の親の正しい子育てである。

   例B 子ども同士の会話

子A 「あ!」(といって、空を指さす)
子B  「え!?」(おもわず、指さされた方を見る)
子A  「あほがみぃーる。ぶたのけぇーつ」

   例C 子ども同士の会話

子C 「てぶくろを反対からいうてみ」
子D  「ろくぶて」
子C (Dを六回ぶつ)

   例D 子ども同士の会話

子E 「うち、こんど、学芸会で主役やんねん」
子G  「へえ、なにやんの?」
子E 「おむすびころりん、ちゅう昔話」
子G  「ほお、おむすびの役やな」
子E 「そ。ころころころりん……ンなことあるかいっ」 

例Bと例Cは小学低学年で流行したひっかけ(例Cは全国区で流行した)だが、ひっかけられた方は怒ってはいけない。
関西の子どもたるもの、ここはあほにされるのも修行である。
例Dぐらいの中級ぼけつっこみは、小学高学年か中学生くらいにならないとできない。

   例E 子ども同士の会話・告白編

少女F 「これ…」(と、バレンタインのチョコをわたす)
少年H 「あ、サンキュ(と、チョコを受け取る)。なに、ずっとここで待ってたん?」
少女F 「ん」(思いつめた表情)
少年H 「ほんま。そら、ごっくろうさん!」(少女の肩をポンとたたいて去る)

 これは、はっきり片思いである。
 上級関西人の少年は、よほど問い詰められないかぎり「好き」もいわないが、 「悪いけど…」なんて白ける言葉は吐かない。「ごっくろうさん!」で、すべて通じる。
 来年の少女は、決してこの少年にチョコは渡さない。

   例F 子ども同士の会話・告白編

少女J 「じぶん(あなた)、好きなひとっているん?」(待ち伏せしていたにもかかわらず、それとなくたずねる)
少年K  「べつに…じぶんは?(きみは?)」(驚きながらも、それとなく、聞き返す)
少女J (だまったまま、あごをしゃくって「あんた」という顔で少年を差し示す)
少年K  「え!? おれ?」(うろたえて)
少女J 「あんたは?」
少年K  「おれは…」
少女J 「いいひんの」
少年K  「いや…」
少女J 「だれ?」
少年K  (そっぽを向いたまま、指だけで少女を指し示す)
少女J 「え!? うち? ほんま!?」
少年K  (照れきって、歩きだしている)
少女J 「な、ほんま? うちなん!? ほんまに?」(しつこくきく)
少年K   (もう走りだしている)
少女J 「なあっ! ほんまあーっ!?」(叫ぶ)
少年K   「あほっ。何回もきくな!」(そのまま走り去る)

 いかがだろうか。
 関西弁はお笑いの言葉だと思っているあなた。ここで、誤解を改めて頂きたい。
関西の少年少女の愛しさ、ロマンティックが見えたはずだ。
「あほ」という言葉にこめられた愛の深さも感じ取って貰えただろうか。
「あほ」は大好きな人間に使われることも多い。
 ここらあたりまでくると、いよいよ上級編に突入する。

   例G 上級関西人の父と子の会話

「なんや。学校行かへんのか」
「………」
「明日は行くんか?」
「………」
「なんか、あったんか?」
「………」
「よっしゃ。だんまりやったら、負けへんど」
「………」
「………」
「おとん。ええかげんにせえや」
「………」
「おとん。もうええっちゅうに」
「………」
「おとん!」
「大きい声だすな。目さめるやないか」
「寝てたんかいっ」

 と、まあ。こんなふうに深刻な場面をひっくりかえせるようになったら関西人もハイクラスである。
 相手がぼけたとわかったら、すかさずつっこみを入れるのがハイクラスな関西人のマナーである。
ぼけは投手、つっこみは捕手。
投げられたボールは、必ず受け止めなければいけない。後逸するなどもってのほか。
そんな人間は関西人の風上にもおけない。
家族がハイクラスな関西人ばかりだと、いつどこで誰がぼけるかわからないサバイバル状態におかれる。

   例H ハイクラス関西人サバイバル戦

弟M (泣きながら帰ってくる)
「Mちゃん。どうしたん?」
弟M 「くそっ。Sのやろう!」
「Sちゃんが、なにかしたん?」
弟M 「おれのこと、ナスビっていいやがった」
「ナスビ?(ふきだしそうになるがこらえる)」
父  「どうしたんや」
「Sちゃんにナスビっていわれたんやて」
「ナスビ? それがなんでそんなに腹立つんや?」
「おとん、知らんのか。Mは、自分がナスビに似てるって、前から気にしとんのや」
父母、しみじみと弟Mを見る。
父母 「なるほど!」(声をそろえて)
弟M 「おい!!」(怒る)
「泣くな、M。Sのキュウリやろうは、おれがゆわしたろ(しめあげるの意)」
弟M 「Sはキュウリなんかに似とらんわ」
「ほな、キュウリはヌカ漬けにして、のしたろ」
弟M 「Sはキュウリなんかに似とらんちゅうね」
「わかった。できそこないのキュウリは、ちぎって、ふんで、ブタに食わそ」
弟M 「そやから、Sはキュウリなんかに似とら…」(つい、笑いだす)
玄関でチャイムの音。母が出てゆく。
母の声 「Mちゃーん! Sちゃんが『ごめんね』いうて、来はったえー!」
弟M 「おれは出えへん」(こわい顔にもどって)
「そうか。ほな、おれが出たろ」
兄、玄関へ出てゆく。
兄の声 「うちのナスビは、出たないっていうてるわ」
弟M 「おいっ。だれが、ナスビやねんっ」

 と、まあ。果てしないサバイバルが続くのである。
 関西の子どもは、うかうか深刻になっていられないというのがわかってもらえただろうか。
 ここまで来て、いくらかは理解してもらえたかと思うが、関西の言葉は単語では説明しづらい。
丁丁発止の受け答えに特徴がある。
 例えば、つっこむ時の常套句。
「ええかげんにせえ!」「おいおい!」「なんでやねん!」「どやねん!」「そんなあほな!」など、いわば吉本芸人に使い古された単語だけではなく、日常会話の中にあらゆる言い回しが生きている。関西弁は正に生き物なのである。
 その生き物をつかまえ、飼いならして、思いのままに使いこなせるのが、関西人といえる。
 関西人とは、凝り固まった価値観を一気にひっくり返せる力のある人間のことである。
人生の辛さや苦しさをちゃかすのではなく、受け止めた上で笑いとばす力のある人間のことである。
ネイティヴな関西人といえども、すべての人間にその力が備えられているわけではない。手塩にかけて、本物の関西人に育てるのである。
 全国の子どもよ、関西人となれ! 
 今や、そう願わずにはいられない。

児童文芸テーマ論考2001/9月10月号掲載一部修正


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