努力できるというのも能力・才能です。
本を読んでいる子どもは、後々伸びてきます。
これは、この仕事をしているとよく分かります。
知識だけでなく色々なものが耕されていきますから。
でも、小学校に、英語活動が入ってきました。
私は、正直言って反対です。
その時間を、図書にまわしたほうが絶対いい。
                      ある先生の言葉より

みんなでまもろう! 子どもの本と 子どもの想像力


こどもの本が売れないという。
こどもの数が減り、こどもが本に興味を持たなくなったとか。
本当だろうか。
戦後日本が児童文学のお手本としてとらえたのは、イギリスの児童文学だった。
イギリスは現在も数多くの児童文学を世界へ発信している。
むろん、イギリス国内でも児童文学はよく売れている。
ということは、イギリスのこどもは数が多いのか?
日本とイギリスは、ともに狭い国土の国だが、イギリスの総人口はおよそ日本の半分。
イギリスの0〜14歳人口の割合は18.7%で約1117万人。
日本の0〜14歳人口の割合は14.3%で約1817万人。
確かに、人口比では日本のこどもはイギリスより少ないが、こどもの数はイギリスより明らかに多い。こどもの数が少ないからこどもの本が売れないというのは、イギリスを見る限りでは当てはまらない。では、こどもの質が違うのか?
日本のこどもは漫画やゲームが好きだといわれるが、それはイギリスのこどもも変わらない。では、なぜイギリスのこどもだけ沢山の本を読むのだろう。
理由は、たった一つ。イギリスでは、こどもが本を読みたいと思えば、すぐ読める環境が整えられているからだ。
イギリスの「世界、本の日」(world book day)は素晴らしい。
こどもたちは作家と直に交流し、本が無料でもらえるのだ。
イギリスとアイルランドでは、三月に義務教育のこども全員にクーポンが手渡され、クーポンを本屋へ持っていくと、六冊の児童書候補の中から一冊をもらえる。または、二十五冊の児童書やオーディオブックの中から値引きしてもらえる。
そういうイベントは、全国的にある。複数の児童文学作家が招待され「ロンドンアイ」という大きな観覧車にこどもと一緒に乗るというイベントもあった。ロンドンの街を眼下に眺めながら、それぞれの作家が自分の本をこどもたちに読み聞かせたという。
他にもある。こどもが選ぶ文学賞(Sheffield Children's Book of the YearAwards)では、シェフィールド地方の学校九十二校のこどもたちが集まり、候補作から一冊を選んで投票した。このイベントでも、作者とこどもたちはふれあい親睦を深めた。
こういう大きなイベント以外にも、各学校規模で、作家をゲストに向かえる取り組みは盛んに行われている。各家庭でも、こどもと本の距離は近い。
イギリスでは、シングルの親と幼いこどもの家庭が多い。
そういう家庭には、政府から教育のための助成金が出る。これは、こどもの本やおもちゃを買うためだけの特別給付金なので、イギリスのシングル家庭は、貧しくても、こどもの本を買うのに不自由はしない。 ロンドンにある、ヨーロッパ最大の書店「ウォーターストーンズ」の児童書コーナーは、ビルのワンフロアの半分を占めている。この書店だけでなく、イギリスの書店の多くは、児童書売り場に、広いフロアと豊かな品揃えを確保している。売り場にはソファがあり、母親が幼子をひざにのせ、買う前の絵本を読み聞かせできる。こどもの本はハードカバーもあるが、多くが、絵本も含めてペーパーバック。
日本の児童書の多くはハードカバーで、値段的にこどもの小遣いでは買えないという難点があるが、イギリスでは99ペンス(二百円ほど)でベストセラーが買える。(これについては、日本でも、こどもの本の環境がきちんと整えられ、本の販売実数が英国並みに増えれば、日本の児童書も確実に安くできる)
まだある。イギリスでは、都会だけでなく、郊外の小さな書店でも、児童書は大切に売られている。これを日本の環境と比べてみよう。
日本の一般書店では、望む児童書はまず見つからない。
大型書店でも、児童書売り場はひどく目立たない奥まった場所に追いやられ、売り場も本棚も狭く、手に取りにくく、創作児童文学などないに等しい。新聞や雑誌、テレビなどのマスコミは、児童文学を成人文学の格下の出版物として明らかに差別しているが、それは、児童文学を真剣に読んだことのない人間による、理由のない偏ったイメージ先行の差別である。結果、マスコミも、書店も、版元さえ、現在売れ筋の本ばかりを押し出す。これら企業の人間は、自分たちが「こども自身が本を選ぶ権利」を侵害していることに全く気づいていない。
こどもが自分で考える手段や材料を奪い、読書の時間さえ与えず、こどもが変わったとか、こどもがわからないとか嘆いても始まらない。刺激的なゲームや視聴率狙いのテレビ番組だけでは、こどもたちの自ら考える力は身に付かない。
映像的娯楽は見ているだけで楽しいが、自分自身で考えたり想像したりをする必要がないので、自分だけの答えや価値観を見出すことは難しい。
教科書的画一的な答えでなく、自分だけの目と心を開いてくれるものは三つある。

一つは、豊かな自然や命とのふれあい。
二つは、生身の人間との心のふれあい。
そして、三つ目は、自由闊達な本とのふれあいである。

大人にとって読書は嗜好かも知れないが、こどもにとっての読書は、必須の心の栄養である。ことに、現代のように、自然とも、生身の人間とも隔離されて育ってくるこどもたちにとっては、読書は貴重な人生体験の場となる。
自然も人間の暮らしも豊かだった昔のように、本は読まずとも子は育つと思っているのは間違いだ。現代という時代は、そんなに甘くない。
人間は、経験を蓄積して個性を形成する生き物である。
未熟な幼いときに焼き付けられたイメージは、知らず知らずに無意識の奥深くに蓄積され、その人間の心的世界を創り出してしまうことは否定できない。
つまり、幼いこどもがたくましい人間力を身につけるためには、こどものうちに人間力に溢れた多くの人間に出逢わなければならない。だが、幼い頃に、それほどの人間に、それほど多く出逢えるだろうか。人間的なふれあいが激減している現代においては、それは限りなく不可能に近づいている。その穴を埋めてくれるのが児童文学である。
人間力のある児童文学に出逢うことで、こども自身も人間力を身につけていく。
常に、暴力的な映像やゲームなど、破滅的なイメージを焼き付けられ続けると、こどもの無意識を通した心的世界は、そのまま暴力的で破滅的な世界を映し出してしまいかねない。
現代起こっているこどもの残虐な事件などは、こどもの心的世界の荒廃があらわれている。その悪循環を断ち切るには、豊かで力強い、闇から光を見出す物語(ただ甘い砂糖菓子的童話でなく)の中に、こどもたちを誘ってあげることだ。
さまざまな物語を旅させて、たとえ暗闇に落ちようとも、誰もが光を見出す力を秘めていると、繰り返し、面白く体験させることである。
多くの児童文学の中から、自分の目と心と手で選んだ大好きな本をみつけ出してもらうことである。
現代日本の児童文学は、本場イギリス児童文学と比べても、もはやその力量は劣らない。
あきらかに劣っているのは、社会の認識と環境だ。
もういいかげん、児童文学は金儲けの手段ではなく、未来の社会を担うこどもたちへの投資だと、社会全体が認識せねばならない。
政府や教育機関はもちろん、企業である書店も、版元も、マスコミも、親である私たちも、金儲けより大切なこどもたちを見つめ直さなければならない。
こどもに心をかけない国は、ただ滅びを待つだけなのだ。          
                             風雲童話城城主  越水利江子

(イギリスの児童書事情の情報は、One Songの紺屋軸さんに教えて頂きました)


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