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花明かりの街から 越水利江子 |
私は京都の貧しい路地裏で育ちました。 京都といえば、他府県の人はそれだけで雅なものを感じられるかも知れませんが、私の育った路地裏は、京都の中流の人たちと最下層の人たちが渾然一体となって暮らす街でした。 我が家のあった裏長屋のお隣は、三宅さんという寝たきりのおじいさんと、その看病をするおばあさんが暮らしていました。 おじいさんは昔、歯医者さんだったとかで、若い頃は上流の暮らしをなさっていた老夫婦でした。子どもがいらっしゃらなくて、二人暮らしでしたが、なぜか年金が貰えないようでした。それで、生活保護の申請をなさったので、担当の役所の人がやってきて、おばあさんから色々事情を聞いて帰りました。 その後、どういうわけか、生活保護は受けられないことになったのです。 おじいさんは寝たきりで、看病するおばあさんは腰が直角に見えるほども曲がっていて、立ったり座ったりも大変なお年寄りです。 誰が見ても、早急な保護が必要に見えました。 それなのに、役所はなぜ保護をしてくれないのでしょうか。 不思議に思っているある日、私が表で遊んでいると、どこかのおじさんの声がおばあさんの家から聞こえてきました。 のぞいてみると、見たことのあるおじさんが「どういうわけで支給できないといわれましたか?」と、おばあさんに聞いています。 どうやら、生活保護のことのようでした。 「お役人が『貯金はあるか?指輪や時計といった貴金属類は持っているか?』と聞かはったんで、貯金通帳を見せましたんどす。毎月の払うお金がちょっとあるだけで貯金はあらしまへん。貴金属いうて何もあらしまへんけど、そうや、昔々もらった指輪をまだ持ってるっていうたんどす。そしたら、それを売りなさいいうて。指輪があるから、支給はでけへんといわはるんどす。あんなもん、売ったかて、二束三文にしかならしませんのに……」いいながら、おばあさんは悔し涙を鼻紙でぬぐっていました。 おじさんは「けしからんなあ」とつぶやきました。 「わたしが掛け合ってみましょう。だいじょうぶ、まかせなさい」 そういって、おじさんは帰っていきました。 私はそのおじさんを知っていました。 同級生のお父さんでした。その同級生の古い家はひどく傾いていて、お母さんはいつも血走った目で山のような内職をなさっていました。 おじさんも間違いなく貧乏だったのです。 でも、その後、おばあさんはおじさんのおかげで生活保護を受けられるようになったようでした。 といって、生活保護を受けている家庭はそのお家だけではありませんでした。 裏長屋には母子家庭が二軒あって、その内の一軒はやはり受給していました。 その家は、母一人が内職だけで息子三人を育てておられたのです。 その頃、冷蔵庫があると生活保護が打ち切られるというので、お役人が来るときには、お母さんは貰い物の古い冷蔵庫をどこかへ隠していました。 今のような冷蔵庫ではありません。 小さなものですから、そういうことも出来たのです。 もう一軒の母子家庭はご主人が亡くなられたので遺族年金とお母さんのお勤めで暮らしていらっしゃるようでした。 その家の一人娘のさっちゃんは、亡くなったお父さんの母親にあたるおばあちゃんが面倒を見ていました。 今から考えれば、姑と暮らしていたお母さんはほんとに大変だったと思います。おばあちゃんはいつもお母さんに小言をいっていましたから。 そのお母さんと娘のさっちゃんは、路地で一番きれいで優しくて上品でした。 おばあちゃんはよその子どもでも口うるさく叱るので、路地裏の子どもたちから「オニババ」と呼ばれていましたが。 でも、さっちゃんから聞いたところによると、よその子たちがオニババと呼ぶおばあちゃんは、さっちゃんにはとても優しかったそうです。 路地の表長屋には、妻を置いて愛人と駆け落ちしてきたという初老のご夫婦がいらっしゃいましたし、お父さんが精神病院(当時はそう呼びました)にいるという在日の母子家庭もありました。 その家の男の子、みきちゃんは私にとって忘れられない大切な大切な友達です。 奥さんに逃げられたという噂のある一人暮らしのおじさんもいましたが、だいたいは、どの家も、狭い一軒に二世代三世代の家族が暮らしていて、路地にはおばあさんがぞろぞろいらっしゃいました。(おじいさんは少なかったので、やはり男性は寿命が短いということが一目瞭然でした) 親はみな生活に追われて忙しく、路地裏の子どもたちはどの子も、おばあちゃんたちに見守られ叱られ教えられて育ちました。 どんなに貧しくても、だれも年寄りはじゃまだとは思いませんでしたし、お年寄りたちは実に堂々とゆったり暮らしていらっしゃいました。 路地には、朝顔や白粉花や鶏頭やダリヤや鳳仙花、すみれや嵯峨菊や沈丁花や、四季の花々が咲き乱れ、グミや枇杷の実がなり、イチジクもなりました。 日が落ちても、春や夏の路地は花明かりでぼんやり明るかったのを覚えています。 美味しいお総菜を作ればご近所におすそわけし、西瓜を切れば両隣に配りました。 ようやく生活保護を受けられるようになった三宅さんのおばあさんは、その後も、それはつましい、清らかな貧乏生活をなさっていました。 私が親にいわれて切り分けた西瓜やお総菜を届けると、そのお礼に、もらった煙草の空き箱でつくった鍋敷きや、おばあさんが種から育てたり、挿し木で育てたという植木の苗を下さったりしました。 そして初夏には、味付け海苔の空き瓶に入った鈴虫を沢山くださいました。 鈴虫は、おばあさんの手でどんどん増やされて、毎年長屋中にもらわれていったので、夏ともなると、路地全体が鈴を転がすような鈴虫の声で満たされました。夏の夜、緑の蚊帳のなかで寝ていると、この世ではない海の底へ、深く深く沈んでいくような気がしたものです。 あの美しかった路地がモデルになった本は、デビュー作の『風のラヴソング』(岩崎書店)でした。 『風のラヴソング』はとてつもなく大きな文学賞と名誉ある児童文学賞を頂いた作品ですが、その名誉は、作者にではなく、あの頃出会った路地の人たちにこそ相応しいと今も思っています。 あの路地で、私は人間に育てて貰ったと思うからです。 けれども、一冊の本では書き足りないことが一杯ありました。 その書き足りないいろいろ、あの街の魅力、人間の底力、人々の優しさ、人生の不思議を、ようやく、もう一冊の本にすることができました。 『あした、出会った少年』(ポプラ社)です。 この度の本は、お友だちには、書店で買って下さいとお願いしています。 なぜなら、その価値があると信じるからです。いえ、そうでなければ、私は、あの街の人たちに合わせる顔がないのです。 どうぞ、あの街の人たちに出会って下さいませ。 むろん『あした、出会った少年』はノンフィクションではありません。 創作の物語です。 ファンタジーといってもいいかも知れません。 登場する人たちは、あくまでも物語の中の人々です。 それでも、きっと、あの美しい花明かりの街の人々に出逢えってもらえるはずです。 私に幸せをくれた街が、この物語を読んで下さるみなさまにも、幸せを運んでくれますように。 |